[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
メールやインターネットが普及して、だれもが気軽に文章を書く機会が増えました。
でもそれは、作文とか手紙とか、何かを人に伝えるための文章。。という意味合いよりも、会話の延長としての文章が多くなっているようです。
メールでは、あまり長くメッセージを送るといやがられると、以前、娘に指摘されたことがあります。
でも、どうしても手紙世代の人間としては、たとえそれがメールという即時即通の便利な形になったとしても、なんとなく、会話をそこで交わすというより、「手紙」という「文章」のやりとりの方が、慣れていて、ついつい長く綴ってしまいます。
さて。。。
そういう時代に、こんなニュースを見つけました。
新入生の必修科目に、作文の書き方や文章の綴り方などを専用のテキストをわざわざ作成して、教えるのだそうです。大学生に。。。です。
会話の中で使う言葉を、レポートや発表の時に多用する学生が増えていることに苦慮しての対策なのだそうですが。。。
必修にしなければならないほど、現場では深刻なのでしょう。
ちょっと笑えない、でも興味深い話題です。
言葉は生き物。。。時代によって変化するとは言いますが、先人達のいろいろな想いのこもった美しい日本語が忘れ去られて、すべてを「微妙。。。」と「超、簡単に」、片付けられてしまうのも、ちょっと寂しいものですよね。
結婚式の花嫁は必ず父親に手紙を読みます。
「泣きを狙ってるんだよ」と言う人もいるかもしれませんが、実はそんなことを言う人も手紙には相手の心に訴えて泣かせる力があると暗に認めているんですね。手紙には相手の喜怒哀楽を増幅する作用があるのかもしれません。メールは即時的で便利ではありますが、ともすれば一過性、記憶の外に流れてしまいがち。短いメールは特にそうだと思います。ですから私的なメールを打つ時は手紙を書くようなつもりで打っています。ですから長くなることもしばしばです。でもいいのです。業務連絡のようなビジネス文書なら簡潔明瞭が大原則であっても、プラベートなら受け取る人の笑顔を思い出しながら、手紙のように心をこめてその人があとでまた一度、二度、三度と読み直したくなるような、そんなメールが打てるといいなといつも憧れて打っています。なかなかそのレベルには達することはできないのですが。。